こんなのがTLにあって、みんな考えることは同じなのだなと思った。
「嫌いな作品の何が嫌いだったか」を言語化することは、自分を知るという..
短い文章だから全文引用したい。
「嫌いな作品の何が嫌いだったか」を言語化することは、自分を知るということに役立つから、無意味ということはない。
ただ、その作品が好きな人にとっては単なる「悪口」に見える可能性があることと、たいていの嫌いの言語化には「自分という要素」の振り返りが欠けているので、その点はフォローすべきだと思う。
悪口ではなく「批評」になるように取り繕うことと、受け取った自分側の評価指標がしっかり見えるようにすること。
これをちゃんとやれば、「こういう人が、こういう風に見るなら、そういう受け取り方もあるかもしれない」という納得感が生まれるし、そうでなくても「その視点で見るなら、こういう見方もあるはずだ」という論理的な反論が可能になる。
この方は少なからず自身のネガティブな感情をネット上で発信されているのだろうと思うが、そうしながらも「こんなこと言っていいんだろうか」という気持ちは常にあるのだろうと思う。特に当世の誰も傷つかない的なトレンドの中において、嫌いなものを嫌いということは逆行なので、肩身が狭いものと察する。
僕もこのサイトではそれなりにネガティブなことを書くので、やはり色々と思うところはあって、過去ネガティブレビューを書くことについて何度か記事を書いている。たとえば4年以上前にもこんな記事を書いていた。

記事から今も変わらない僕の気持ちをいくつか抜粋してみる。
「好き」に理由はいらないかもしれないが、「嫌い」には理由がいるのである。少なくとも、公に表現するのであれば。
好きならただ「いい……」で良いかもしれないが、嫌いの場合はそういうわけにもいかない。だから言葉を尽くしてその理由について分析するのだが、これはネガティブレビューが逆説的にしばしば熱量を帯びる理由で、一周回って好きだろ、と言われるかもしれない。しかし本当に別に好きではない。
なんでそこまでして書くのか、といえば、それはそうする必要があるからだ。
感想を書くとは、作品を読むとは、自身と作品の距離を確かめて、今の自分を確認する行為だと思う。作品を通じて、自分を知ろうとする行為だと思う。世界を知ろうとする行為だと思う。
だから、必要なのは「好き」だけじゃない。それじゃ自分も世界も測れない。自分を語るには、「好き」も「嫌い」も「なにもない」も、すべてを記述しなくてはいけない。
元記事と同じようなことを当時の僕も言っているわけだが、この気持ちについては今も変わるところがない。
もっといえば、好きとか嫌いというのは結果論であって、僕からすればどちらも同じことを言っているに過ぎない。僕にとっての使命は作品の素晴らしさを伝えることではなくて、作品世界と自分の間にある光路を探ることだ。鑑賞とはそういうものではなかろうか。その見出した道に浮かぶ情景が、魂を震わせるのだと思う。
そしてそういう僕の書いたものを読む人にも、当然作品との間に光路があるのだし、また僕との間にも光路がある。この重ね合わせと共鳴に人の喜びがあるのではなかろうか。それは単に路であって、好きも嫌いも表現される部分に過ぎない。
ただこういう態度は、恐らく人によっては完全に理解不能なのだ。それはわかる。むしろそういう人のほうが多いのかもしれないし、また当世はその方向に流れているのかも。そういう世にあって、個人サイト冷遇の煽りを受けて当サイトも人の目につかなくなったのは、むしろよかったのかもしれないと最近は思う。
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