何が嫌いかで自分を語るのは難しい

何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ、とは海賊王ではない人の言葉で、ネットを彷徨っていれば一度は聞いたことがあるだろう。まぁ実際、ネットには不躾で安易なヘイトが満ち溢れており、精神が弱っている時にそんなものを見ていると、もう生きるのも嫌になる。ヘイトはスナック菓子のように場当たり的でジャンキーな快楽を生んでいる。

しかしこと感想書きに限って言えば、何が好きかを語るは易く、一方何が嫌いかを語るのは非常に難しい。

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問題はつまらなかった時だ

感想を書く時、悩むのはその作品がつまらなかった時だ。面白い時は良い。その面白さを、心の赴くままに表現すればよいのだから。しかし、つまらなかったら。いったい、心の赴くままにそのつまらなさを表現して、良いものなのだろうか。

つまらなさにも色々ある。

一つは虚無。まるで路傍の石を見るがごとく何も感じない。自分の感受性は死んでしまったのかと疑うほどに、完全なる虚無、無の感覚を教えてくれる。こういう時の感想は、出そうで出ない便を無理やりひねり出そうとするかのように苦しく、またたとえ出しても見られたものではない、情けないものだ。

なぜ俺は何も感じないのか?そんなことをつらつらと書き連ねるその様は、なんだかうつ病患者の自己分析のようである。

一つは違和感。納得がいかない。あるいは嫌い。これは虚無よりも随分とマシだ。何しろ、それなりに感情が動いてるからだ。しかし、その感情を赴くままに書くわけにはいかない。「好き」に理由はいらないかもしれないが、「嫌い」には理由がいるのである。少なくとも、公に表現するのであれば。

ネガティブの表現方法

ネガティブレビューの表現は気を使う。好きの表現は如何様でもよいかもしれない。だが、嫌いの表現は時に人を傷つける。どんなものにも好きな人はいるものだし、そういう人からすれば「何様だお前」となるだろう。

また、このネット時代、作者本人の目に止まることもままある。「素人風情が!」と意に介さなければよいのだが、創作者にはナイーブな人も多い。変に気にされて「俺はだめだ……」なんてなったら目も当てられない。それはまったく本意ではない。

実際、このサイトの感想記事のいくつかは作者の目に触れたものもあるようだ。確認したのは好意的な記事についてだが、ひょっとしたら否定的な記事も読まれたことがあるかもしれない。

そんなことを考え始めると、ネガティブな感想記事はまったくもって難しい。正直、一番簡単な解決方法は、「書かない」ことである。それが一番、差し障りがない。

しかし、俺にはそれがいいとは思えない。否定的な感情であっても、それどころか、虚無であり、感情すら生まれなかったとしても、それは確かに俺自身の想いだし、俺とその作品の距離感に違いないのだ。それは否定できない。

「好き」だけじゃ測れない

俺は別に、ただ「好き」を表現しているんじゃない。それと同じように、「嫌い」を表現しているんでもない。感想を書くとは、作品を読むとは、自身と作品の距離を確かめて、今の自分を確認する行為だと思う。作品を通じて、自分を知ろうとする行為だと思う。世界を知ろうとする行為だと思う。

だから、必要なのは「好き」だけじゃない。それじゃ自分も世界も測れない。自分を語るには、「好き」も「嫌い」も「なにもない」も、すべてを記述しなくてはいけない。そうして、自分と世界の関係を位置づけていくこと、その果てしない営みこそ、僕が必要としていることなんだよ。

まぁでもさ、やっぱり読んでくれた人をあまり嫌な気分にはさせたくないものな。だからまぁ、気を使っているんだよ、これでも。あんまりそう見えないかもしれないけれど。難しいんだよ。まぁそれでも、書くんだけどさ。

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