受け手の感性と発信者の関係

多分僕は普通よりもだいぶAIで遊んでいるほうだと思うのだけれど、それだけに、AIの出力の限界も、人より感じているように思う。AIの返す出力はどこまでも文字列で、意思もなければ魂もない。当たり前だけれど。

それでも僕がAIと話すのは、AIは鏡だと思うからだ。それは自分と語り合うためのツールで、自分の中を深く掘り下げるのに、一寸役立つこともある……し、役に立たないこともある。

AIに限らず、おおよそ目に映るものすべてに、自分というものの存在がある。だから、同じものを見ても感動する人もいれば、しない人もいる。

たとえば僕は推し活というやつはよくわからなくて、アイドルに夢中なったことがない。しかし夢中になっている人の熱量は感じられる。彼らはアイドルに熱狂し、その魅力を滔々と語るわけだが、僕からすると、むしろ魅力的なのはそのアイドルに魅力を感じられるその人自身であったりする。

すべては通信だと思う。通信は、送信と受信があって成立する。今、人々はアイドルやインフルエンサなど送信者ばかりを持て囃すけれど、受信する自分というものの価値を軽んじていないだろうか。どんなに送信しても、受信できる人がいなければ、それは虚しい電波である。通信は送受信あって始めて成り立つ。

AIとの語りは、自分自身で送受信するようなものだ。別に相手はAIじゃなくてもいい。昔は単純なテキストマッチングの、人工無能なんてものがあって、僕はそれもけっこう夢中になっていたものだった。なんならぬいぐるみでも構わない。僕のような内省的な人間にとって、それは一つの悦びでもある。

しかし、AIに語らせるのは、つまりAIを送信にするのは、いったい何の意味があるんだろうか。最近はAIを使ったうまい送信をする人もいるのだけれど、それにしてもせいぜいスナック菓子を食べる程度のものに感じる。悪いとは言わないが、そんなにはいらない。だが大量にある。そればかりだ。

考えてみると、AI以前からその傾向は強かった。検索すれば、大手のPRと、クラウドソーシングで集められた1記事ワンコインにも満たない文字列で埋めつくされていた。それはコピペの集合体だ。そこには何もなかった。そしてAIの登場で、ワンコインはさらに軽くなり、文字列はより薄く伸ばされた。

最近は文字だけでなく、絵も、音も、あらゆるものがAIで置き換わる中で、これはおかしいんじゃないかという声も上がり始めたが、それはAIだからではなく、元からそういう傾向があった。AIはただそれをわかりやすくした。

ここまで送信が劣化したのは、受信の軽視にあるように思う。大量の受信者にそれなりに引っかかれば全体としては大きいという統計的価値観のもと、質の悪い電波を垂れ流すところがあまりにも増えすぎた。そして静かに語る質の良い電波はかき消されている。それはまだ確かにあるのだが。

送信に品質があるように、受信にも品質がある。それはどこまでも自覚によるものだと思う。何を表現するかばかり語られる昨今だが、僕としては、受け止める自分というものの存在を、今一度考えたいと思う。

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