なんとなく終わりを読むのが躊躇われて永遠に積ん読していた、生徒会役員共の最終巻にあたる22巻。表紙にタカくんがいるのは最初で最後ではなかろうか。しかしタカくん謎にたいていのヒロインより人気あるからな。
まぁ終わりと言っても特に何か起きるわけでもなく、本当にいつもどおりで、これは明らかに意識的にされたものだが、日常系としての一つの美学を感じる。終わりのないウェーブレットのような作品だった。
以下22巻こと最終巻感想。タカくんは結局誰がいいの?
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日常を極めし者
タカくんならウオミーの横で寝てるよ(個人の見解です)。
まぁもちろんタカくんが誰かを選ぶなんて野暮なことはしません。それについてはまぁみんなそう思っていたんじゃないでしょうか。というより、本作については、恐らく何もないまま終わるのだろうと大方の予想どおり、期待に応えてというべきなのかどうか、どうということもなく、終わりました。
あえていうならば、「変わらない」ということを確固たる形で示したと言えるかもしれません。最終話直前の、桜才のシンボルであり、出会いの場所であり、思い出の場所である桜を守った話は、まさにそういう話でした。彼らの守った桜の木は、春になれば咲き誇り、やがて散り、しかし来春にまた咲き誇り、そして散り、再来年も、そのまた先も、ずっとずっと続いていくモノです。
本作はまさにそういう作品でした。日常系の極致でございました。
心地よい起伏のリズム
つくづく思うことは、日常系は波だなということです。波というのは、たとえばこういうものです。

みんな大好きサインコサインタンジェントォのsin波ですね。この波が延々と続くんです。こんな感じです。

別に正弦波じゃなくていもいいんですけど、自分のイメージとして伝えたいことは、日常系とはフラットではなく、永遠に続く周期的な起伏だということです。小さなイベントが繰り返し怒る、そういう感じですね。フラットなのは、コボちゃんとかがそうかな。コボちゃんは新聞4コマですけど、新聞4コマの連続に起伏もなにもありはしません。それは単一の音の連なりです。実際、あまりコボちゃんを日常系って言わないと思います。
日常系はフラットではなくて、起伏は確かにある。でもその起伏は、なんというか、当たり前のもので、読者にとって大きな驚きがあるものではない。そして、その起伏のリズムが心地よい。そういった作品が、良い日常作品だな、という風に思われます。日常系はリズムです。
この対極にあるのが、徐々に盛り上がっていき、最後、一瞬の閃光のように煌めいて消える爆発系インパルスで、これはいわゆるストーリー作品が当てはまります。本作に、爆発といえるような瞬間は、ただの一回もありはしませんでした。
……ま、せいぜい、最後の最後、桜(変わらぬ日常)を守ったことに対して、シノが「私のエゴかな?」というのに対し、津田くんが「俺はそんなまっすぐな会長が好きです(人間として)」と言ったことくらいですかね。これは作品のメッセージであるのと同時に、この作品の枠内でやれた最後の読者サービスなのかなと思いました。ほっとしているスズも含めて。このあたりは、本作のラブコメとしてのよさが出ていますね。よいラブコメは、パンツよりも言葉が求められるのだ。
理想的な日常系のリズム
つまり本作は理想的な日常系として描かれ、そして終わったのですが、それにも関わらず、読後にはなんとも言い難い寂寥の感がありました。確かに本作の先には、永遠の日常があるように思われます。でも確かに、この22巻が終わったとき、その時点で、まるでオルゴールが止まったように、続くはずだった波がプツリと途絶えたという感覚もまた事実です。作品としては、読者にその先を想像させるものだとは思いますけれど、現実として寂しい。
本作は、少なくとも、僕がクソジジイになって二度と目覚めなくなるその日までは続いているべきではなかったのだろうか。それはもちろん読者のエゴなうえに、まっすぐですらないのですが、このリズムを続けてほしかったというのは偽らざる気持ちです。
リズムに浸るには、物理的な時間が必要です。その時間は、けっこう長いんです。そう思った時、もう二度と、このリズムを満喫できることはないのではないかなぁと、人生を振り返って思います。
まぁでも、この歳になるまでに、一つ、このリズムを見つけられて、よかったのかな、とも思いました。ありがとうございました。
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