レビュー・感想における好き嫌いと良い悪い

僕は常々、感想なんて好きに書けばいいと思っているし都度そう書いているが、どうも、多くの人にとってそれは難しいことのようだ。それは感性の言語化の難しさもあろうが、それ以前の問題として、誰も傷つけないなどという言葉が流布される世情や、また感想というものがそもそも何か理解されていないこともあるように思われる。

まぁ感想とは何かを考える始めると、確かになんだか哲学的な感もあって厄介なのだが、その本質は結局相対的なものなのだから、そんなに気張るこたねーんだということは言える。

なに言ってるのという感じかもしれないが、一つ意識すると良いと思われるのに、「好き嫌いと良い悪いの違い」がある。好き嫌いと良い悪いは、関連しているが独立した二軸だ。「良くて好き」「悪くて嫌い」というのは誰にも想像しやすいが、「悪いけれど好き」「良いけれど嫌い(好きではない)」ということは実際よくある。なんならそっちのほうが多いかもしれない。しかしこの不一致が、感想を難しくさせる

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好き嫌いと良い悪いの違い

好き嫌いは完全に主観の問題で、そこに客観的な基準はない。どこまでも自分の感性に沿ったもので、世間がなんといおうと好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いであるし、それについて誰に何か言われる筋合いはない。

一方で良い悪いには、主観と客観の両面がある。客観というのは、他の人は一般的にどう感じると合理的に考えられるかという観点である。そして主観というのは、自分の考える一般の振れ幅である。良い悪いというのは、自分ではなく他人がどう考えるかという合理的推察で、他人を視点にしている点で客観的だが、あくまでも推察という点で主観的、ということだ。

つまり、好き嫌いとは自分の視点であり、良い悪いとは他人の視点にたった想像である。

4つのパターンそれぞれ

つまり、好き嫌いと良い悪いは理論的には独立しており、2x2=4のパターンがありうるし、実際ある。

良くて好き

「良くて好き」というのはもっとも想像しやすく、また語られやすいものである。まぁつまり、ジャンルを代表する名作と言われるようなものはだいたいここに当てはまる。誰が見ても良いというだろうし、また自分も好き!これほど語りやすいものはない。

悪くて嫌い

「悪くて嫌い」も想像しやすく、一般に駄作と認められているものだ。ただし、こちらは名作・良作と比べるとやや語れづらい。何故かと言えば、「悪いけれど好き」という人が一定数存在し、その人たちに対する配慮が働くからである。そしてそういう作品は存外多いことを、オタクは知っている。

悪いけれど好き

漫画として普遍的に良いとは到底言えないが、あまりにも性癖に刺さりすぎていて好き以外の感情がない、というものは稀によくある。まぁつまり、誰にも勧められない大好きな作品というもので、これは漫画読みならば一作くらいはあるのではなかろうか。むしろオタクを名乗るものはこういう作品を見つけた時にこそ唯一無二性を感じられて、ドーパミンがドバドバ出るまである。

それを知っているので、「まぁ正直駄作だけど、好きな人はいるだろうなぁ……」というのは、オタクはけっこう想像できてしまうし、そういう人たちを傷つけたくないので、駄作だなぁと思っても、共感性の高いオタクはネガティブな言葉を慎むことが最近は多いように思う。

良いけれど嫌い

もっともパニックに陥るのは、「良いのはわかる、だが嫌いだ」と感じた時だろう。これは特に、悪いものですらネガティブなことを言えない昨今において顕著だ。この時、多くの人が何を言って良いかわからなくなる。恐れを知らない者はありのまま「嫌い」と言えるが、なまじっか考えられてしまうと「いや……でもいいと思うし、みんないいと言っているし……」となってしまい、嫌いだと叫ぶ心を静かに殺すことになる。

現実の作品は多層である

さらにやっかいなことは、現実の作品に対する評価と感情は一貫しないということだ。つまり、或る面では良いが或る面では悪く、また或る面では好きだが或る面では嫌い、ということは普通である。また、ここまで議論を簡潔するにするため、良い悪い・好き嫌いとしたが、現実には「良くはない」「悪くはない」「良くも悪くもない」「好きではない」「嫌いではない」「好きでも嫌いでもない」というようなグラデーションが存在する。

さらにさらにやっかいなことに、好き嫌いはもちろんだが、良い悪いにも解釈の振れ幅が存在することは前述したとおりで、この振れ幅は自身の状態によって変化する。或る時には好き・良いと感じられたものが、或るときには嫌い・悪いと感じられる。特にラブコメなどは、自身の年齢のような長期的スパンのみならず、たとえば失恋直後などでは作品に対する感じられ方がまったく異なるだろうことは想像に易い。

さらにさらにさらにやっかいなのは、客観とされる評価すらも、その時代・土地によって大きく変化することだ。或る時代では良作・名作とされたものが、時を経て不適切とか評価されなくなるということは珍しくもなんともなく、永遠の名作とはマーケティング上のキャッチコピーに過ぎない。

僕らは今を生きており、語る言葉も今に過ぎないのだから

このように考えると、好き嫌いにせよ良い悪いにせよ、我々は当世の流行という前提の中で、自分の感じたことを述べているに過ぎず、そこに絶対的なものはないとわかる。単なる好みにせよ客観的とされる評価にせよ、結局は相対的なものだ。

であるならば、その視点が自分か他人かは区別するにしても、あまりこんなことを言ってはいけないのではないか、などと気を遣うだけ無駄だと思う。大前提として、我々は相対的に物事を測っているだけなのだから、何を言ったところで、所詮はどのように座標軸を取ったのかでしかない。その程度のものなのだから、妙に気を遣ったところで仕方が無い。

作者と読者の距離が近くなったのは事実なので、あまり不躾な言葉を使うのは考え物かもしれないが、しかしそれも言葉を選べば良いのであって、レビュー・感想は、何よりも自分に素直であるべきだと思うし、それでいいのだと思う。

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