楽しむための読書法『最大素敵解釈の原理』:一番心動かされた合理的解釈に映る情景

この読書法は僕にとって必殺技であり奥義であり、このブログの集大成だ。

最大素敵解釈の原理とは、読書に限らず、あらゆる事物を解釈する際のすべてに適用できる、非常に汎用的な、世界を楽しむための積極的読書法の原理である。自分が8年間にわたってラブコメ漫画という狭い範囲で感想記事とかれこれ1500ばかり書くことができているのは、この読書法を実践しているからに他ならない。

この読書法は非常にシンプルだ。一言で言えば、「今の自分にとって一番心動かされる合理的な解釈の試み」。在りし日の匿名掲示板風に言えば、「一番素敵なことを言ったヤツが優勝」である。だがこれは少し言葉足らずなところがある。一番重要なことは、素敵解釈の経路は、人・場所・時・状態、あらゆるパラメータによって変動するということだ。素敵解釈は、その人その時その場限りの一時的なものといえる。

それは親しい人との、なんてことのない、しかしかけがえのない談笑のように、儚く消える。だからこそ尊い。感想記事やレビューを書くことは、そのうたかたであるべき記憶の射影を世界のどこかに刻む業と言えるだろう。

以下に、この読書法の具体的な内容について詳述する。

目次

最大素敵解釈とはなにか

この読書法の本質は、畢竟「最大素敵解釈とは何か」にある。これを一言で言えば、「自分が一番心動かされる合理的な解釈」と言える

たとえば、シルバー川柳に「恋かなと 思っていたら 不整脈」というシルバー川柳がある。胸のトキメキが老いからくる疾病であったというジョークだ。逆に言うと、ラブコメで見つめ合う男女がドキドキしているの原因が不整脈であったら、それはギャグだ。合理性がなく、心も動かされない。

実際のラブコメ漫画にも、そういうギャグがある。たとえば「かぐや様は告らせたい」において、ヒロインのかぐやは、自身の恋心を認められず病気に違いないと精密な検査を要求し、すべてを知るおつきの侍女に嘆かれている。

あわせて読みたい
『かぐや様は告らせたい』8巻感想:この漫画が続いている間は生きようと思った 作・赤坂アカ。2018年8巻。ラブコメとして頭3つくらい抜けている気がする。もう8巻なのに、いまだ最初の数ページで妙に引き込まれてしまうのはなんなんだ。ラブコメの定...

また、「理系が恋に落ちたので証明してみた。」は、全編にラブコメの定石を科学的に解釈する笑いが展開されており、たとえば少女漫画の壁ドンシーンを以下のように分析する。

雪村「顔のほてり 動悸 多汗 とすると考えられるのは」
氷室「若年性の更年期障害ね」
後輩(そんなわけないだろうが!!)

理系が恋に落ちたので証明してみた。 1
あわせて読みたい
『理系が恋に落ちたので証明してみた。』1巻感想:愛していると証明せよ。愛の定量化に臨む理系バカップ... 作・山本アリフレッド。2016年1巻。 イケメンと美女しかいない研究室で繰り広げられる理系バカップルのラブコメ。理系というか情報系。シュタインズゲートのオカリン的...
記事もあるよ

これらがギャグとして成り立つのは、逆説的に「あるべき解釈」が存在することを意味している

実際、壁ドン時の動悸を若年性の更年期障害によるという解釈は絶対にありえない。合理性が低いというだけではない。たとえ持病持ちの主人公ヒロインであったとしても、壁ドンシーンでその解釈はありえない。意味がわからないからだ。持病のために動悸がある、という解釈に、物語を膨らませる要素など何一つない。それは必ず、登場人物の心的な動揺を表現していると考えなければならない。

しかしながら、その動揺の中身が何かについては、解釈の幅がある。これは重要なポイントだ。若年性の更年期障害による動悸と考えるのは誤読だが、動悸の理由を「緊張」とみなすか「ときめき」とみなすか、あるいはそのまぜこぜ、あるいはもっと違う何かと見るのは解釈だ。解釈には必ず幅があり、その幅のどこに帰着するかは、最終的に読者の心の動きが決めるもっとも心動いた解釈が、その読者にとっての解釈だ

そこに正解はなく、同じ人が同じものを読んでも、その日その時その気分で変わる。最大素敵解釈の原理に基づく読書とは、正解のない解釈の幅の中で、自分がもっとも素敵だと思うところを見出す試みに他ならない。

素直であれ、たとえその結果が闇であっても

重要なことは、できるだけ素直でいることだ。いいことを言おうとしてはいけない。ただ自分に素直に、自分だけの解釈を見つけよう。その先に、自分の中で一番良い言葉は見つかるものだ。

一番やってはいけないのは、正解を求めることだ。前述したように、解釈に正解はない。

しかし誤解してはいけないことは、非合理であってよいわけではない、ということだ。ここまでに述べたとおり、壁ドンの動悸は若年性の更年期障害によるものではない。それは解釈の幅ではなく、単なる誤読である。

誤読と解釈を決める境界線は、合理性だ。客観的に見て一定程度の合理性は、やはり必要である。逆に言うと、合理的であるならば、その範囲では、どんな解釈をしてもよい、とも言える。読書は自由だ。その中でもっとも心動かされる解釈を、最大素敵解釈とするのだ。

その結果であれば、たとえネガティブなものでも最大素敵解釈になりうる。たとえば、作品のテーマを否定するような解釈があったとして、それを合理的に説明でき、しかも一番心動かされるのであるならば、それがその人の最大素敵解釈である。実際本サイトにも、最大素敵解釈をした結果、ネガティブレビューになってしまったものはある(念のため注意喚起すると、ネガティブレビューを公開する場合は通常のレビュー・感想よりも気をつけるべきことが多い)。

路傍の石から見出された光に意味はあるか

さて、解釈は自由なわけだが、この解釈の幅は、想像以上に広い。というか無限大の幅の広さがある。

たとえば壁ドン一つとっても、実際の経験の有無……はまぁあんまりある人いないと思うが、しかし押しの強い人に対する印象という観点一つとっても、人によってかなり見え方が変わるだろうことは想像に易い。ある人は「自分もときめく」かもしれないし、ある人は「嫌悪感を抱く」かもしれない。嫌悪感を抱く人の解釈は、どうやってもあまり気持ちの良い文字列にならないだろう。

もっといえば、本ずっと読みたかったけど仕事が忙しすぎて読めなかったんだが、やっと時間が取れて読めたーーー」って時は、どんな本を読んでも面白いだろう。「どんなグルメよりも結局腹減った時に食べるおにぎりが一番うまいよね」って話。逆に、「もう疲弊しきっていて何もかもどうでもいい死ぬほどどうでもいい」という時では、何を読んでもその感想は「冷めた文字列」になるだろう。

そしてそれらすべては、合理的な読み方の範囲おいて、解釈の幅におさまる。つまり気分が良ければ路傍の石も輝いて見えるだろうし、最悪な気分ならピカソの絵も落書きにしか見えないかもしれないというわけだが、そういう人間の時々刻々とした状態が影響を与える解釈に、何か意味はあるのだろうか

本質は解釈ではなく、解釈に至る道にある

ここで二つのアプローチがある。一つは、自分の状態のような曖昧かつ個人的なものをできるだけ排する方向性だ。これは実際レビューではよく使われる手法だし、公平に評価する等の目的がある場合には適しているだろう。

もう一つの方法は、自分の状態まで含めてすべてを記述する方向性だ。つまり、「腹が減っている時に食べた」というような、ごくごく個人的で「知らねぇよ」と言いたくなることまで、解釈に影響を与えていると考えられるものすべてを記述するのである。

最大素敵解釈の原理で採用されるのは、当然後者だ。自分の個人的な経験、考え、想い、すべてを記述し、そのうえでその作品を見てどう解釈し、何を感じたのか。そのすべてを書くのだ。そうして書かれたものは、もはや単なる解釈ではない。それは、その人と作品を繋ぐ道に他ならない。

先日或る作家が、作品を鏡のようなものと表現していた。

1つの作品に対し、涙を流すほど感動する人もいれば、極めて不愉快な思いをする人もいます。

 印象的だったシーンを語らせれば見事にバラバラですし、その違いは結局、読者の価値観、引いては歩んだ人生に大きく依存するようです。

 そう考えれば、段々と、作品とは読む人ごとに姿形を変えるものであり、その人の内面を映す鏡のようなものではないか、という気がしてきます。

【小説家の日常】中傷的なコメントをもらっても、昔ほど凹まなくなった理由|方丈 海|pixivFANBOX

なるほど道理である。そうであるならば、その内面にいたるすべてを描いたなら、それはその人と作品の間にある光路ではないか。つまり、感想とはその人の解釈や共感という点ではなく、生み出された解釈や感情と物語を繋ぐ線ではないか

最終定義

ここに改めて、最大素敵解釈の原理を定義づけよう。

最大素敵解釈の原理とは、自分と作品を繋ぐ中で、もっとも素晴らしい情景を見せてくれる道である。この読書法は、その道を探す行為そのものを指している。

欠点と別の読書法

万物を楽しむ最大素敵解釈の原理を使ったこの読書法は無敵だが、大きな欠点がある。それは、「めっちゃ疲れる」「時間がかかる」「難しい」。

まず疲れる。本当に疲れる。まるで禅問答のように自分の気持ちを問いかけ、内面を探索し、その合理的根拠を探していくのは本当にしんどい。なんならつらいまである

そして時間がかかる。ただでさえ忙しいのに、どうやってその時間を作り出すのか。っていうかその時間で別の本読んだほうが良くない?という疑念がわく

最後に難しい。これだけ疲れて時間かけてやってなお、どうもなんだか、「コレジャナイ」気がしてならない。っていうかぶっちゃけコレジャナイ。ハッキリ言うが、完全な表現は原理的に不可能です。文字列という媒体で、自分の頭の中にある曖昧模糊とした何かの完全な表現は不可能だし、またここまで散々述べたように、時々刻々として自分の中の素敵は変わり、それはまさに光路を探すその瞬間にも起きているのである。つまり不可能。無理。

特に僕のように感想記事にする場合、その労苦はさらに重たいものになる。この時、自分の感性が自分の文字列に固着してしまう現象がおきる。書くことによって、書かなかった感情が消えるのだ。これは本当に苦しい。僕はこれを感情の不確定性原理と呼んでいる(名前付けるの好きだな)。このあたりのことは昔記事にした。

あわせて読みたい
感想を書く難しさ、「俺の気持ちはコレジャナイ」の先へ 感想を書くのはそれなりに難しいことだったんだなと、最近になってようやくわかってきた。もちろん面白い感想を書くのは難しいことだ、とはわかっていたんだが、そうで...
感想書きはつらいよ

で、本当に疲れて疲れて疲れるし時間もかかるので、こんなことを書いておきながら、僕は常にこの読書法をしているわけではない。普段使いの読書法はもっと自然体で受け身のものだ。この受け身の読書法を、最小思考の原理と呼んでいる(名前付けるのほんと好きだな)。まぁ大層な名前だけど要は感性の垂れ流しである。でもこれはこれで、記事にしようとするとそのまんまってわけにはいかないから、けっこう難しいんだよ。まぁ現実的には、複数の読書法をミックスすることになるね。それが配合割合が自分のスタイルと呼ばれるものだ。

このへんの話については、また勝手気ままに記事を書くこともあるだろう。

なんにしても、この最大素敵解釈の原理は僕が8年ばかり無駄に記事を書き続けて到達した、人生のマンネリを打破するアクティブ読書法の礎であるので、是非参考にされたい。……ならない?まぁそう言わずに……。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

  • URLをコピーしました!

コメント

コメント一覧 (2件)

  • いつもそんな風に読めたら……きっと心荒ぶる事もなく、有意義な読書体験が出来るのでしょうね。
    でも、なんてことない作品を頭空っぽにして読むのが一番読み進めるし楽なんですよね(笑)。

    • そうですね、なんでもないものをなんでもない感じに楽しめることが、多分きっと趣味なんだと思います。
      素晴らしい作品を楽しむのは誰でもできますが、そうでもないものを楽しめるのは好きだからですね。

      毎回こんな読み方していたら時間と体力と気力が尽きるのは間違いありません笑

コメントする

目次