ラブコメにもいろんなタイプがあるが、この漫画は読んでいると自然と口が開いていくのを感じる。恐らく脳細胞が急速に死滅することにより、身体の制御もままならなくなっているものと思われる。
前回記事
これは「脳死で読める」とはまた異なる感覚だ。脳死で読めるが「何も考えずに読める」の比喩ならば、本作は「何も考えられなくなっていく」という感覚に近い。なにそれこわい。一種の没頭ではあるんよね。
以下11巻感想。凛子のデートはちょっと目が覚めた。
内容
- ゲーム
- ギャルゲー
- キャンプ
- デート凛子
- デートクラスメートの子
- ないよう
脳が不活性化する
1ページめくるごとにIQが1下がる気がする。これは没頭の一つの形で、決して面白くないとかそういうものではないんだよ。面白くないやつってのは、もっとこう、虚無だから。虚無ではない。どちらかというと満たされる感覚。満たされるんだけれど、なんか満腹中枢が麻痺して延々とお菓子を口に運び続けているような、そういう怖さがある。
……麻薬?
まぁでも実際、考えても仕方ないよなっていう感じなんだよ。この漫画はとにかく感じていればよい。だって可愛い女の子がわちゃわちゃしてるだけなんだよ。そして主人公の男の不快指数が極限まで0に近い。あまりにも快適過ぎて、主人公はある程度読者をムカつかせるほうが刺激になるんだなぁとまで思ってしまった。
凛子のデートは活性化した
唯一脳が少し活性化したのは、小学生ヒロインたる凛子とのデート編だった。小学生らしからぬ知略でもって、現実を受け止めつつ今できる最善を尽くす凛子の姿にバリキャリの将来像を見た。この子はきっと仕事できます。しかしなんだかんだフツーに養太郎とのデートを楽しめたようでなによりである。
そして最後は痺れたよね。養太郎がついいつもの調子で凛子の写真を撮り続けたうえ、凛子から他の子の写真を撮らないのか聞かれた時につい「いや 女の子の写真を撮るのは……」と暗に凛子を女の子として見てません宣言をしてしまった養太郎に対し
好きなだけ撮っていいよ
お嬢様の僕 11
お兄ちゃんが私を好きな分だけね
このシーンはけっこうゾクッときたね。凛子の表情がもう既に精神年齢養太郎超えなんだわ。言葉も面白い。「好きな分だけ」というのは通常「いくらでも」という意味で、その字義通り区切るなら、「お兄ちゃんが私(凛子)をいくらでも撮って良い」という意味になり、前のセリフの強調表現とも取れるが、日本語としてやや不自然だ。なので、「お兄ちゃんが私を」は定量的な制約とみなさないといけないだろう。それはつまり、限度なんかないくらい好きなんでしょ?と言わんばかりだ。
凛子の艶めかしさすら感じる表情と相まって、自信と大人びた余裕を感じさせる。実際相当気合い入れて描かれたのでは?本巻のハイライトどころか本作で一番印象深いシーンかもしれない。
さすがの養太郎もドキッとした模様。ってかもう既に恋愛ヂカラ本作ナンバーワンだろ。女子、三日会わざれば刮目して見よ。
その後はまた不活性化した
小学生に比べて高校生男女の思春期なことよ。この子たち見ていると俺の数少ない脳細胞が絶滅の危機に瀕する。
まぁ正直この歳になると別に誰が推しとかもなくて、誰とくっつこうがハーレムエンドで終わろうがどうでもいいくらいの冷めた感覚なんだけれど、今回で好きなヒロインとしては凛子が一等になったかもしれないなぁ。
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