なぜわざわざネガティブな感想(レビュー)を書くのかについて

このサイトはかれこれ1500くらい記事があり、メインコンテンツは漫画の感想記事なわけだが、その中には当然ネガティブなものもある。というか、すべての記事において、少なからず、何かしらネガティブと捉えられることは書いてあるんじゃないかな

で、こういうスタンスはレビュアーとしてはあるべき姿だと思うのだけれど、少し前には「傷つけない笑い」なんて大真面目な顔で語られたこのご時世、「なんでわざわざ否定的なことを書くの?」と思う人もいるかもしれない。また、否定的なことを書くことに抵抗がある、という人もいるだろう。

本記事は、なぜネガティブな感想(レビュー)が書かれるかを説明するものだ。

目次

書く側の立場として:ネガポジは結果にすぎない

まず最初に言うと、「ネガだのポジだのは、表現したいことの一側面であって、そもそも本質ではない」。別の言い方をすると、「ネガティブかポジティブかは意識していない」とも言える。ただ結果として、書いたことがポジティブに捉えられることもあれば、ネガティブに捉えられることもある

さらに言えば、ネガティブとポジティブは明確にわけられるものではなく、実際の表現において両者は常に割合で混在している。そういう表現こそ奥深いものだし、そもそも人の心の機微は単一の感情表現で名状できるほど単純ではない。だからこそ、感想書きは自分の心情という自分でもよくわからないものについて、いかなる文字列がもっとも適当か頭を捻ることになる。そうして吐き出された言葉は、単純にネガティブとかポジティブで区分けできるものではない。

以上のように、「わざわざネガティブなことを書いているのではなく、書きたいことを書けば、その中にはネガティブ要素が強く捉えられるものも含まれる」ということである。

受ける側の立場として:最終的に「傷つく」かは書き手ではなく受け手が決めること

さらに重要なことは、書かれたことがネガティブかポジティブかは、最終的に受け手が感じ取るということだ。いかに書き手がポジティブなつもりで書いても、人によってはネガティブに捉えられることもあるし、その逆もある。ラブコメで想像しやすいものを言えば、たとえば「恋愛経験が豊富」は人によってプラスにもマイナスにもなるだろう。その人の価値観によって、同じ表現でもポジティブにもなりネガティブにもなる

少し前くらいに「誰も傷つけないなんとか」みたいなキャッチフレーズが流行っていたように思うが、傷つくかどうかは自分が決めることであって、他人が決めることではない。あえて妙な言い方をするならば、「人にはどんなことにでも傷つく権利がある」。

最強伝説黒沢という作品がある。これは黒沢という男の生き様を描いた作品だ。黒沢は独身中年男性で、不器用な生き方しかできない男である。彼は、家族連れを見るだけで心を痛める。自分はそういう普通の人生を歩むことができなかった……と。

黒沢は、家族モノの笑いを笑えないだろう。なんなら傷つくだろう。では、黒沢が傷つくかもしれないからファミリーものは「人を傷つける」ものなのか?そう思う人はいないだろう。だがこの瞬間、「誰も傷つけない」は「誰も傷つけない(ただし黒沢は傷つけて良い)」となる。これは明らかに欺瞞だ。

「そんなことで傷つくのはおかしい」と思うかもしれない。だがそれは、黒沢を、他者を認めない態度である。他者の人生を認める限り、その人が傷ついたといえばそれは尊重されなければいけない。これこれは傷つくほうがおかしいので考えなくてよい、などと、一体誰が、どんな権利があって決めるというのか?

以上のように、他者の人格と人生を認めるとは、自分にとってはどんなに傷つくのはおかしいと思うことでも、その人は傷つくかもしれないし、またそれを認めることである。

むしろ感想書きの観点で言えば、感想の真骨頂は、「誰も傷つかない笑いで俺は傷ついた」と叫ぶところにあるとすら言える。傷つくかどうかは俺が決める。傷つかないなんて、お前が勝手に決めるな。

ネガティブとポジティブは表裏一体

ここまでの話をまとめる。書き手はそもそもネガティブかポジティブかという観点で表現をしない。ネガティブかポジティブかは結果であり、一つの表現の中に両者は割合で混在する。さらに、書いたものが最終的にどう評価されるかは、書き手ではなく受け手が決めることだ。書き手がポジティブなつもりでも、それをネガティブだと解釈する自由と権利が受け手にはある。

以上より、ネガティブな表現は原理的に必ず存在する。ネガティブとポジティブと表裏一体であり、なんなら同一の存在である。どちらが表でどちらが裏かは、見る人の立ち位置による。

ネガティブの表現は純粋にテクニックの話

しかし、それでも「自分自身がネガティブだと感じられる表現や、社会的にネガティブと捉えられるが一般的と思われる表現をわざわざすることには抵抗がある」とは依然として思うかもしれない。

で、この感覚はリスク管理の観点から非常に真っ当だ。長くレビューを続けていくなら必須のものだから、大事にしてほしいと思う。現実的に、ヤバイ表現は存在する。ただこれはもう、「ネガティブだと思われることをどのように表現するか」というテクニックの話だ。その中には「書かない」という選択ももちろん存在する。僕だって書かなかった言葉は無数にあるよ。

実を言うと、この記事はそういうテクニックについて書くつもりだったのだが、その前提として「そもそもなぜネガティブなことを書くのか」について書いていたら、もうそれだけで記事になってしまったんだ。まいったね。

やけにボリュームが大きくなってしまったのは、感想は書き手でもあり受け手でもあるからだろうな。感想は受け手としてのものだけれど、その表現という観点では書き手になる。両者の観点から俯瞰すると、ネガだのポジだのというのは、同じものをどこから見ているかに過ぎないと思えるんだよ。ってかね、感想書き・レビュアーの立場からいうとね、ネガティブってネガティブじゃないんだよ。これもまた言い始めると別の記事になっちゃうんだけど……。

といってもまぁ、確かにね、前述したとおり現実的にまずい表現は確かにあるし、やっぱり書き方には気を遣うから、まぁそれについては、またの機会に書くんじゃないかな、多分……。

(ダメなことについて、続き書きました)

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 誰も傷付けない・傷付かないこと考えるなら、「沈黙」が一番手っ取り早いのですが、それじゃ意味がないという…。

    読者としては、紳士的に意見を交換出来るこの場は本当に貴重な存在です。

    • この考え方はお笑い系からきているようですが、表現行為について発信者と受信者にわけた一方通行な関係をベースにしているように感じられました(彼らはテレビや舞台がベースだからでしょうか?)。
      また、受け手を慮っているようですが、傷つくかは受け手が決めることであって発信者が決められることではありませんから、実は受け手を軽んじているようにも思えます。
      否定的な気持ちも含む様々な想いを受け入れ、互いに思いやることが大事だと思うので、こうしてコメントいただけてやりとりできるのは、自分にとっても嬉しいことですね。

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