またなんかわけのわからん怪しいことを言うのだが、ラブコメを楽しむとは人間にとって最高級の贅沢であり、これを超えるエンターテイメントはそうそうないということを、ここに宣言しよう。ラブコメラヴァーズの紳士淑女は人世の歓びの真髄を知っている。
それが証拠に、ほら、ちょっと疲れただけで、嫌なことがあっただけで、ラブコメってもう何も楽しくない。なんだったらもうずっと楽しくない。
心身の健康と、健全なる優しさをもって初めて、ラブコメの愉悦は味わえる。これ以上の贅沢ある?
このブログの更新が止まる時
このブログをちょくちょく見に来てくれている人は知っていると思うが、このブログの更新頻度はかなりムラっけがある。ここ一ヶ月ほどはほぼ毎日更新しているが、一度更新が止まれば一ヶ月以上音沙汰なしなんてこともある(それでも4年以上続いているブログとしてはマシなほうだ)。
ブログの更新が止まっている時というのは、だいたい疲労が一定ラインを超えている時だ。疲れると、ラブコメを読んでも何も感じなくなる。いや、ラブコメのみならず、あらゆる物語、それどころか創作物や芸のすべてが、路傍の石のごとく感じられる。
エンターテイメントとは心身の健康あって初めて楽しめる、心の贅沢なのである。しかしその中でも、ラブコメとは特にA5肉のごとき最高級の贅沢品だと言える。
なぜ娯楽を楽しめるのか
そもそもエンターテイメントとは、五感をとおして何かしら人間の欲求を刺激するものだ。刺激される欲求が本能的であればあるほど、その歓びはわかりやすく広範な支持を得やすい。ポルノなどはその最たるものだ。
直接的な刺激を伴うものと比べた時、物語というのはやや高次の能力を必要とする娯楽と言えるだろう。実際、トルストイを読むゴリラというのはちょっと想像できない。
純文学を楽しむには、高い能力が求められる。あらゆる人が楽しめるものではない。しかし、純文学よりももっと難しいものがある。それがラブコメだ。
なんでやねんと思うかもしれないが、本当のことだ。実際、俺は過去何度もラブコメが読めない精神状態に陥ったことがあるが、そんな時でも小説は読むことができた。いや、むしろ心がやられた時、純文学などは最後の最後まで楽しめる可能性が高い、貴重なものである。大事にしよう。
一方で、ラブコメ漫画、それもハッピーないちゃラブ漫画などは、心身ともに健康でなければ、とても読めたものではない。特に直接的な性描写のないラブコメであれば、なおのことだ。
ラブコメという共感の娯楽
なぜかと言うと、ラブコメは他者の歓びを我がことのように共感できた時に最大の愉悦を伴う、本質的に利他的な娯楽だからだ。我がことのように共感するといっても、もちろん本当に自分のことではない。俺はこの薄明かりの部屋の中でただ気味悪く笑みを浮かべているだけだし、鏡を見るまでもなく俺はそのことを知っている。ただ登場人物の幸福が、あくまで他者として、しかし自分ごとのように嬉しいのだ。
他者の喜びが嬉しい、それは難しいことなんだ。一方で、他者の不幸が嬉しいなどは、もっと簡単、というか、人にとって根源的であるようだ。貧すれば鈍するというように、困窮した人間は、他者の、それも弱者の不幸さえも笑うようになる。ちょうど俺が今読んでいる本に、次のような一節がある。
傷つける喜びは共感のちょうど反対にあたる。他者の痛みを分かちあうのではなく、他者が苦しむことで快感を得るのだから。コリン・ターンブルの『山の狩猟民』には、この傷つける喜びのとてもショッキングな、にわかに信じられないような実例が記されている。東アフリカのイク族の話だが、飢餓が高じて非人間的な状態になったというのだ。人びとは他人の不運にしか喜びを見いだせなくなった。弱いものや盲人が転んだり、老人が乱暴な若者に食べ物を奪われたりすると、みんなが金切り声をあげて笑う。若者たちは老人たちの口をこじあけて、まだ飲み込んでいない食べ物まで奪ったのだ。子どもさえ嘲笑の対象になった。
フランス・ドゥ・ヴァール著 西田利貞・藤井留美訳, 1998, 利己的なサル、他人を思いやるサル, 草思社, p150
恐るべき話であり、現代日本で集団がここまでの精神状態に陥ることは中々考えられないが、しかしこうなるかもしれないな、ということは、自分が苦しい時の精神状態を鑑みても想像できないことではない。
俺が今までで一番心をやられた時は、音楽もまったく聞けなくなっていた。俺はロックの愛好家なのだが、当時あらゆるバンドの曲が空々しく聞こえたものだ。しかし、Theピーズというバンドの曲だけは聞けた。そのバンドはバカロックでならしたバンドだが、だいぶダウナーな曲も歌っている。
俺が聞けたのはもっぱらそのような曲で、「日本酒を飲んでいる」などがそれにあたる(Youtubeにも上がってるみたいだ 日本酒を飲んでいる.wmv - YouTube)。「Hey君に何をあげよう」のような明るさを持った曲はだめだった。ちなみに知っている人向けに言うと、TOMOVSKYは全般的に全然ダメだった。あれは案外健康でないと聞けないバンドらしい。
まぁ所詮俺程度の心の荒廃はこの程度だが、しかし食うに困るなどいよいよ差し迫った危機になれば、さらに心は無感情になり、何も感じなくなっていくのだろう、というのは想像がつく。そうして、人の不幸にしか甘さを感じられなくなるのだろうか。
ラブコメ、その高次なる愉悦
こうしてみると、他者の喜びを快楽に変換するラブコメが、人間にとってどれだけ高次の機能を要求するかわかろうと言うものだ。だからこそ、ちょっと疲れただけで俺はもうラブコメが楽しめなくなる。昔書いた記事「ラブコメは俺を救わない – 少年は少女に出会う」で、俺はこんなことを書いていた。
ラブコメで癒やされるのもある程度元気があればの話で、一定ラインを下回ってしまうと、ラブコメ読んでも癒やされない、というより、そもそもラブコメを読む気力が失われる。(略)回復の過程にラブコメ漫画はないわけだ。これはラブコメ漫画のもつ性質なんだろうか。俺が昔読んでいたような陰気な小説や随筆ならば、読めたような気がするし、また少しばかりは救いになったような気がする。
ラブコメは俺を救わない – 少年は少女に出会う
疲れてラブコメ読めない、読んでも楽しくない。回復の過程にラブコメはない。しかし、陰気な小説ならば読める。そんなことを書いている。
そうなんだよ。つらい時、陰気な物語はまだ読める可能性があるんだ。だが、楽しい話、特にラブコメの幸せハッピーいちゃラブものなんかね、もう、無理、駄目、全然。虚無。何も感じない。感じられない。
それはきっと、共感の能力が失われているからなんだろうと思う。共感には、心身の健康、そして他者を思いやれるだけの優しさが必要だ。それができるっていうのは、とても恵まれた状態なんだ。
先で引用した書籍によると、ターンブルはこういったらしい。「道徳も贅沢の一つだ」。
なるほど。であれば、ラブコメを楽しむとは、人世における最高の贅沢といって良いのではないだろうか。きっと、そうだ。
ということで、ラブコメラヴァーズの紳士淑女においては、これからも長くラブコメを楽しむため、健康的な生活と、勉学・仕事・人助けに励み、毎日を充実させてほしい。俺はもうダメだ。
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