感想を書く難しさ、「俺の気持ちはコレジャナイ」の先へ

感想を書くのはそれなりに難しいことだったんだなと、最近になってようやくわかってきた。もちろん面白い感想を書くのは難しいことだ、とはわかっていたんだが、そうではなくて、たとえつまらない感想でも、それどころか意味不明な文字の羅列でさえも、感想を書く、ということ自体に、ある種の難しさがあるようだ。そしてそれは、人によっては何をどうやっても全然書けないほどのものらしい。

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感想という名のあらすじを書く

らしい、というのは、俺自身は書けてしまうタチなので(だからこんなサイトを長々とやっている)、なぜ書けないのかというのが直感的に理解できないからだ。自分の考えたこと、思ったことを書くのは、うんこをするくらいに当たり前でごく自然な人間の生理現象だと感じられる。

なので、皆があまり感想や考えを書かないのは、単にそんなものを書く暇なんかないからだ、と思っていた。まぁ実際それは大いにあるだろう。一日は24時間だし、他に楽しいことはいくらもある。

が、たとえ無限の時間と「感想記事を書きなさい」という指令を与えられたとしても、呻吟した挙げ句「よくわからないが少なくとも"感想"ではない何か」を生み出してしまう人は相当数いるだろうと思う。

たとえば先日見たこのツイートなんかはそのパターンの一つだろう。

リプライには「感想ではなくレビューならばもう少し望むものがくるのでは」というのもあったが、恐らくこの手合いはレビューも書けない。やっぱりあらすじを書いてしまうだろう。

こうなってしまう要因の一つとして、素養の問題はあると思う。ある事象に対して解釈そのものができないタイプだ。そういう傾向のある人は、けっこういるんじゃないかな。実際、生きるのに重要なことは事実と推論であって、解釈ではないかもしれない。で、このタイプに蜘蛛の糸が切れた理由を訊ねると「重量オーバー」と真顔で答えたりする。というか、かくいううちの父がそうだった。

俺の解釈に価値あるの?あるよ

「そもそも俺の解釈なんか書いていいの?」派もだいぶいるだろう。

これについては、確かに教育の問題かもしれない。学校教育ってやつはやけに「正解」「良い感想」を求めるからなぁ。まぁ妥当な解釈ができる必要は確かにあるし、公教育であまりわけのわからんこと書かれても困るってのもそりゃわかるんだがね。そんなことばかり教えている弊害なんじゃないのかねぇ。

「正しい解釈を書かなきゃ」「良いこと書かなきゃ」なんて思ったら、何も書けねぇよ。漫画の感想記事1000以上書いてきた俺だって書けねぇよ。

感想ってのは、何を書いたっていいのだ。いいのだが、心理的抵抗があってつい「正解」を求めてしまう悪癖が身についてしまっている人も、まぁいるんだろうなぁ。

いや、「正解」というより、「間違い」を恐れているというべきだろうか。解釈には正解と言えるものなどほとんどないから、「誰にも間違いだと文句が言えない」ことを書こうとすると、書かれている事象を書き連ねることになってしまう。その結果、あらすじと呼ばれるものを書き上げてしまうわけだ。

これについては、大丈夫、あなたの気持ち、解釈に価値はある、というかむしろそれにしか価値なんかないのだ、と断言してやりたいのだが、まぁ俺が断言したところで「いやでも」だろうなぁ。

でも俺の気持ちはコレジャナイ

揺れ動く人の感情に価値を感じられるし、それが人さまざまである面白さもわかっているが、言語化することに壁がある、というのもあるだろう。うちのサイトなんかを見てくれる人にも、その傾向が強いタイプはいるかもしれない。

まぁ無駄に言葉を連ねるのは野暮だという考えもあるかもしれないが、しかし「いい…」とか「尊い…」で表現できるばかりではないのが人の感情だ。いつも栗をくれたのはごんだったことを知った兵十とぐったりしたごんに対して思うことは、果たして10文字以内の簡明な表現で言い尽くせるものだろうか。

だが確かに、「君はどう思う?」と問われると言葉に詰まってしまうのはわかる。「ごんが可哀想」え、ほんとか?それだけか?可哀想ってあってる?とまぁ、このざわついている心をいざ言葉に落とし込もうとすると、どうにも「コレジャナイ」感覚、それはわかる。わかりすぎる。

そして、どんなに頑張っても「コレジャナイ」からは永遠に逃れられない。つまり感想を書くとは、「俺の気持ちはコレジャナイ」を乗り越えて、それでも書くということだ。これは確かに、難しいことだな。

終わらない旅だから

なんてことをつらつら考えて、感想ってのは案外難しいもんだな、ということがなんとなくわかった気がする。「そもそも感じるものがある」「感じたことを書くことに価値を感じる」「感じたことを(これじゃなくても)言語化する」といういくつもの壁を乗り越えた先にある偉業が感想だったわけだ。

特に「これじゃなくても言語化する」には特別の難しさがある。作品の解釈を間違える勇気は持てても、いや、間違いなんかないんだと開き直れたとしても、肝心の自分の気持ちを間違えてしまったら、いったい何を書いているのかわけがわからない

でも書くんだよ。いいんだよ、間違えて。作品の解釈に正解がないように、自分の気持ちにもまた、正解なんかないのだ。正解がない以上、何を書いても何か違うのはそりゃそうだ。そういうもんだ。

何もかも正しくないからこそ、「ここじゃない」「あそこでもない」と、俺たちは終わらない旅ができる。そして旅の楽しさっていうのは、目的地につくことではなくその過程にあるもんだ。その積み重ねを、俺たちは「人生」と、そう呼ぶんじゃないのかね。

どうせなら、楽しい人生を歩もうじゃないか。そして願わくば、人生を語り合いたいものだね。それがどのようなものであれ。

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