『賭ケグルイ』1-3巻感想:ギャンブルで心の友を求める女

河本ほむら, 尚村透, 賭ケグルイ 1, 2014, スクウェア・エニックス

読めるようになったので、賭ケグルイを読み始めた。いや、別に読めなかったわけじゃなくて、実際3巻までは読んでいた。話題作だったし。内容的にも全然嫌いじゃなかった。ただ、妙なお色気とか百合っけみたいなのが雑味に感じられて、本編をあまり楽しめず、そのままだったんよね。これは多分、当時俺が異性愛のラブコメに傾倒していたので、別に本作の主成分でもなんでもないそういった雑味に対し、過敏に反応してしまったのかなぁー、とか思う。あるいは、本質的にラブコメと相性が悪い何かを感じ取ったのかもしれないし、 

今はそういう傾倒が薄れつつあるので、なんだか普通に……と言ってよいのかはわからないけれど、俺なりの普通には読めたので、サイト更新のリハビリも兼ねつつ、今更ながら記事にしていこう。

以下、1-3巻感想。

目次

再び楽しめるようになることもある

さて、本サイトはここ1年以上にわたって更新が停滞しているわけだが、その理由は端的に物語にのめり込めなくなったことにある。ちょっと前、Twitterで、30代後半、全然創作や推し活みたいなのが楽しめなくなったうわぁぁぁみたいなツイートがバズっていて、多くの共感を読んでいたようだけれど、そういうことが俺にも起きていると思ってくれていい。

ただ、俺はあのツイートのように自分の感性の変化について焦ってはいなくて、歳を重ねれば当然昔のようにはいかなくなるんだろうな、という気ではいる。本質的に、創作やらなんやらを楽しめなくなったわけではない、と思う。ただ、10代や20代の時と同じようには楽しめなくなるのは、間違いなくそうだろう

自分自身が変化していく中で、物語との距離感が変わる。漫画に限らず、あらゆる創作物を楽しむことは、世界との距離を測ることだと思う。距離感が変われば、今までと同じようにできないことは当たり前だ。今までだって、そうして少しずつ変わる距離感を楽しんできた。ただ確かに、ここ2,3年くらいの感性の変化は、今までよりも急だったかなと思う。まぁ、体格が変わって自分の体をうまく扱えなくなったボクサーみたいな感じ?などとはじめの一歩の知識だけで言う。

この話を始めてしまうとそれだけで1記事軽く突破してしまうので、これくらいにするが、要は、俺自身の立ち位置が変わったことにより、かつてあまり楽しいと思わなかった「賭ケグルイ」が、存外楽しめた、という話である。

これはけっこう面白くて、恐らく俺が賭ケグルイをあまり楽しめなかったのは、俺の人生では恐らく20代後半から30代前半の時のみと思われ、逆に10代から20代前半だとけっこう楽しんで読めたんじゃないかと思える。つまり、再び楽しめる感覚を得たのは先祖返りのような感覚だ。こういうこともある。ただし、やはり楽しみ方は昔とは異なるとも思う。

夢子の人間性

10代の俺ならば、純粋に登場人物の感情の起伏や、もしくはちりばめられたサービスシーンを好んだかもしれない。まぁ別に今もそういったものが楽しくないわけではない。ないわけではないが、メインでもない。

今の俺は読みながら何を考えているかというと、主に登場人物の夢子について、「変なやつだなぁ」と思いながら読んでいる。3巻までのところだと、古より伝わる金髪ツインテのツンデレ少女・早乙女と一昔前の鈍感系ラブコメ主人公みたいな鈴井が比較的よく描かれているので、彼らについてもその人間性について思ったりなんだりもする。

そしてそういう人間性は、人間一人を見ていてもわからなくて、彼や彼女の関係の中で見出されるものである。夢子はある意味では正直者なので、誰に何を言っているかでだいたいその感性は掴めるものと思う。

で、今のところ夢子が好意的なのは早乙女と鈴井であり、この二人は対極的な性格をしているだけに面白い。早乙女の負けん気の強さは当然夢子の好むところであるだろうが、その一方で、絵に描いたようなお人好しである鈴井に対しても、単に利用するわけではなく好意的にも接していることから、夢子がいわゆるサイコパスではないことがわかる。

逆に、夢子が嫌悪感を吐露したのは、生徒会の人間として下の下の着物女と死にたがり眼帯女である。着物女については、追い詰められた早乙女をさらに誘ってドン底まで突き落としたことを非難しており、どうやらこれは夢子的にはナシらしい。また、ぶっちぎりのイカれ女のデスマッチについても、基本的にはお断りのようだ。

特に3巻妄戦後、夢子が鈴井に「なぜ再現を続けたのか」を問うたところは、夢子の人間性を見るうえで着目すべきところだろう。夢子は、自分と鈴井の関係が「支配」なのか「信頼」なのかを確認したかった。そこで、鈴井が思考停止で夢子に投げたのではなく、自分なりに必死に考えながら、それでも届かないと理解し、それでも夢子にはできる、できてほしい、と、限られた時間の中で信じ選択をしたから、つまり「信頼」したからであると確認できたので、夢子は喜んだわけだ。

早乙女とのやりとりを見ていてもわかるが、夢子は案外ウェットな人間同士の心のふれあいを好む。また、ブタゴリラからわざわざ蕾を救ったことからも、夢子は人間が自由であること、またその自由な人間同士で、本当の「心からの」交流をすることをとても楽しんでいることが見て取れる。

ラブがあるのかは知らんが

ところで、信頼の確認シーンにおいて、鈴井は美少女でもある夢子からの「スイーツバイキング」のお誘いに対して、「(月末ゲーム買うから)金ねンだわ」と無下に断ろうとしている。これは鈴井が決して夢子に精神的支配下に置かれているわけでは対等の関係であることを示しているわけだが、それはそれとして、ラブコメ的には「いやお前そこは一も二もなく夢子取れよ」でもあり、こういうところがラブコメに傾倒していたかつての俺が、あまり楽しめなかったところなのかもしれない。おごらなくてよかったぜーって無邪気に喜んでるんじゃあないよ。

コインが裏だった(鈴井が勝ちだった)のは夢子が細工したのかどうかについて、解釈が分かれるが、個人的には細工したのではなかろうか、と思う。夢子はたとえ小さなことでも勝敗の確定したギャンブルはしないだろうが、ここでの夢子のギャンブルは、コインの裏表ではなく、鈴井の本心である。人の本心は所詮わからないものであり、それはいかに洞察力の優れた夢子にとっても同じだ。だからこれは、夢子にとってはギャンブルだった。もっといえば、夢子にとってはギャンブルがそれなのだ。夢子にとってギャンブルとは、他者と心を通わせること、なのだろう。それが良い方向でも、あるいは悪い方向でも。だから、勝敗の決まったギャンブルは嫌いなわけだ。

こういう世界観なので、ラブコメっぽいことはできるだろうし、実際3巻までだとラブコメに倒せないことはないくらいの感じで描かれているが、その必要がなさそうなので倒さなさそうだなぁー。まぁラブコメは懐が広いから、やりたくなったらいつでもやれるんだけど。いや、別に取り立てて見たいわけでもないんだが。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次