千田大輔, 異常者の愛 6, 2018
サイコパス漫画。ヒロインは自己愛と反社会性の高いサイコパスで、そういう人がどういうことするかといえば、たとえば松永太あたりで調べて胸クソ悪いと思ったら読む前に下調べすることをおすすめする。割と胸糞漫画の部類なので……。
俺はヒロインの思想の中に愛と呼ばれるものがあるとは思わないし、そもそもの疑問としてサイコパスに愛なんてものはあるのか?と思うが、それをあると仮定して描いているところに、ラブコメ浪漫がある、のかもしれない。実際ヒロインの心情の吐露は、純サイコパス的なものとはちょっと異質に感じた。なにか、愛というものに憧憬を抱いたような。その気持ち自体に、若干同じ穴の狢でもある俺は哀れみを感じなくはない。だが愛なるものはサイコパスに理解できるものではなく、結果、どこまでいっても自己愛の無残な変形でしかなかった。
こんな感想書いてしまうくらいだから、面白かったのかなぁとは思うものの、6巻も費やす必要あったのだろうか?というのも正直な気持ち。楽しい話じゃないから、もうちょっとまとめてほしかったな。。。
にしてもマコさんの作者さんだと思うと感慨深い。以下ネタバレ感想!っていうか解釈。
読んで後悔、胸糞漫画!でも面白い……から読んだのか!?
気味の悪い表紙だからどうかなと思いつつ、1巻無料だしやたら宣伝で目に尽くし、ってか同著者のマコさんが普通にラブコメだったので、と読んでみて後悔。胸糞漫画やん。
ヒロインがガッツリとサイコパス。もうこの時点で俺のほしいラブなんてないんだが、展開が胸糞なので最後まで読まざるを得ず、畜生って感じだわ。人死に、拷問、監禁、洗脳、こんなことするやつが許されるかっていう気持ちしかねーわ。押切蓮介あたりも時々こういう胸糞を描くことがあるけれど、我慢できなくなるのか(笑)鉄拳制裁を食らわせるんだが、本作はあくまでしっとりと終わる。
まぁでも、なんだかんだこういう記事書いてしまうくらいだから面白くはあったのかなぁ。
サイコパスに愛などあるか
さて、サイコパスってのはなにかっていうと、一言で言うと「良心を欠如した」人で、反社会性や共感性のなさなどの特徴(サイコパシーと呼ばれる)をもつ。その異常性は、たとえば「サイコパス診断」でググるとよくわかる(三堂の言葉がいかにもサイコパスらしいこともわかる)。
ちなみにネットで適当に調べると反社会性パーソナリティ障害と同一扱いされていたりするが、それはサイコパスとは別の区分である。実際、反社会性の高くないサイコパスもいて、そういう人は犯罪を犯さないのでなんらかの形で社会に溶け込んでいる(人口の1-3%程度いると推測されている)。そういう人をマイルド・サイコパスと呼び、あのスティーブ・ジョブズもそうであった、という説もある。
ただ反社会性パーソナリティ障害を患っているサイコパスも多く、そういう人は犯罪を犯す上に良心がないので更生しないし、その癖平然と嘘をつけるのでさも改心したかのように振る舞ってタチが悪いらしく、各国、対応に苦労しているようだ。ましてサイコパスは外面がよくて人を騙す術を心得ているから、現代社会の平均的な人との距離感だとやりたい放題。手に負えないってんで、アメリカではサイコパスと診断された受刑者を、出所後すぐに民事拘禁して病院に閉じ込めたりしているらしい。そこまでいくと、ちょっとどうかなとは思うが……。
あと痛覚が鈍い人もいるらしく、本作では痛々しい拷問シーンが多いが、ヒロインも普段あまり痛みを感じないタイプなのだろう(実際アドレナリンが〜とか言っているいるし)。またどんな時でも沈着冷静であり、本作のサイコパス・ヒロインも冷静さを失ったのは最後完全に追い詰められて自分勝手な愛を語った時くらいである。
サイコパスは常人と脳そのものに違いが見られることもわかっており、たとえば情動を司る扁桃体や、理性を司る前頭葉などに違いがあるらしい。つまり、感情も異なればそれをブレーキする理性も正常に機能していないということで、姿かたちこそ人であるものの、その心は我々一般人の想像を超える。
サイコパスについての情報は、ネットだと検索結果が汚染されているので、とりあえず「精神病質 - Wikipedia」あたりを参考にしつつ、ちゃんと専門家の書いた本を読むほうがよい。上に書いたような話は、新書「サイコパスの真実」に詳しいので、興味がある方は是非。サイコパスの対処法として、最後の主人公のモノローグそのまんま書いてます。「関わるな」。
こんなサイコパスの連中に愛なんてものはない。まぁあったとしてそれはせいぜい自己愛と呼ばれるやつで、実際自己愛性パーソナリティ障害とも症状が近いだろう。そんなものはいかに彩ろうと俺の求めるラブではない。
あ、ちなみに言うまでもないことだと思うのだが、ヤンデレとサイコパスは断じて違う。まぁ、いわゆるヤンデレの愛もまた、自己愛の変形であることが多い。が、それは正真正銘の愛に変質できるものだ。それを実際にやってのけたのが、ヤンデレ漫画の金字塔、未来日記である。サイコパスにそれはできない。他者のことを想えないから。
サイコパスvs一般ピーポーの仁義なき戦い
ということでこの漫画はラブではなく、サイコパスvs一般ピーポー、ファイッ!というB級スプラッタ映画を見るつもりで読むと良い。サイコパスなヒロイン・三堂と、サイコパスに狙われた哀れな子羊・カズミ&愉快な仲間たちの戦いである。
この戦いは絶望的で、まぁ一般ピーポーの連戦連敗。まず一般ピーポーたちが、サイコパスなんて想像もしないから、サイコパスの恐ろしさを身を以て知るまで、ピーポー同士で連携できないんだよね。ようやく連携できても、そのときには身も心もサイコパスにズタズタにされて、恐怖を植え付けられているから、まともに戦えない。だいたいサイコパスは良心ないから非道もなんでもできるけれど、一般ピーポーには良心あるから、もう勝負にならないわけだ。
結局、何十人もの罪なき人々が巻き込まれ、死んだり拷問されたり消えないトラウマを植え付けられたり色々である。それがいちいち胸糞悪いんだわ。
三堂死ねという気持ちでページをめくり続けるのだが、不甲斐ないカズミたちは三堂に蹂躙されるばかりだ。それが6巻の最後の最後、三堂との最終決戦まで続く。ちなみにサイコパスの弱点は、もはや言葉も通じないくらいに血が上った脳筋野郎だそうで(操れないし力でかなわないから)、最終決戦時のカズミがまさにその状態であった。カズミの怒りと覚悟を見誤ったことが、三堂の直接の敗因と言えるだろう。結局、彼女にカズミは見えていなかったわけだ。最初から見ていなかったとも言える。
最後、カズミは三堂に復讐をする
三堂死ねで最後まで読ませる漫画なのだが、最後はなんだかんだスッキリと終わる。まぁ死んだ人は生き返らないし、あまりにも犠牲が大きいので、ハッピーエンドとは言い難い。だがバッドエンドでもない。
それは三堂が刑務所で死んだから、ではない。三堂は最後まで誰にも理解されず、自分勝手に死んだ。そこにカタルシスはない。キモい手紙送ってきただけ。
この手紙のキモさはすごい。彼女の愛とやらはどこまでも手前勝手で、自分に都合の良い世界しか見えておらず、都合の悪いこと見事に全部忘れている。カズミという名前があるだけで、現実のカズミが出てこない。
それがわかっているからか、カズミは彼女の手紙を読んでなおドライである。最期までカズミが見えなかった三堂と違い、皮肉なことにカズミは誰よりも三堂のことを理解していた(そしてそれが三堂にはわからず、彼女は敗けた)。カズミは三堂に気持ち悪さを覚えても、心動かされることはない。
三堂のことはもはや関係なく、重要なことは、カズミたちが最後、しっかりと生活をしていることだ。
たしかにカズミは絶対に三堂のことを忘れられないだろう。その意味で、三堂の目論見はシノの言う通りある程度成功している……ように見える。
が、実はカズミは三堂の思い通りになっていない。むしろ、三堂との戦いを経て、カズミはサイコパスの特性をよくよく理解し、きっちりと三堂に復讐していると言える(カズミにそのつもりはないだろうけれど)。
真の復讐は、三堂を忘れることではない。というか、この惨事をなかったことにしてはいけない。そうではなく、人生を捨てず、人に絶望せず、人を思いやり、三堂ではない女性と一緒になり、愛し、子を育て、幸せに過ごすこと。三堂のいないところで幸せになることこそが、なによりの復讐なのだ。
そんなこと、イツキは最初から理解していたけれど、それは当事者ではなないので冷静だったからだろうね。客観的にはわかるんだよ。でも当事者にはなかなかね。
だから、カズミの復讐は生涯続く。けれどもそれは、三堂の自分勝手な想いとは、二度と交差することのないものである。
それができるのは、言うまでもなくシノのおかげだ。カズミが言うように、シノは強い。シノだけではなく、傷跡を残しながら立ち直った皆も強い。普通の人は弱いから、サイコパスのいいようにやられてしまうかもしれないけれども、それでも支え合い、立ち直り、幸せを掴む芯の強さを秘めている。
愛とは何かなんてわからないけどさ
何が愛か、なんて普通の人にもわからない。だが愛が素晴らしいものであることは感じられる。三堂は、ひょっとしたら愛の素晴らしさの片鱗を感じたのかもしれない。寂しい人(俺)がラブコメを求める心理に似ているのかもな。だとしたら気持ちもちょっとわかる気がする。初恋至上主義とか早く出会ったもの勝ちとか、割とラブコメのテンプレートに則った思想だし三堂。その素晴らしさと現実の落差に失望し、現実こそ「異常者の愛」だと感じられたのだろうか。自分こそが真の愛の体現者たると信じたのだろうか。
まぁ愛の結果が監禁と拷問なんだが。共感できない彼女は、形だけの同棲生活に象徴されるように、彼女がどこかで見たのかもしれない愛の形式だけ真似て自己満足しており、そこに相手の気持ちはない。相手の気持ちなんかどうでもいいから、どんな手段を講じてでもあるべき形になれるようにするわけだ。
だが、愛とは二人で紡ぐものだ。カズミに執着していた三堂も、そのことを形式的には理解していたのかもしれないが、他者と紡ぐものである以上、共感性なくして愛などわかるはずもない。共感できない彼女の"愛"は、グロテスクで歪な、独りよがりの出来損ないにしかならなかった。哀れだとは思う。
愛に焦がれ囚われた三堂は最後まで、その形式主義のために、一度決めたターゲット、カズミを変えることができなかった、いや、変えるなんて考えもしなかっただろう。そして、カズミがもう届かないところにいることを悟った彼女は、現実を受け入れられず、痛みと自分の血だけが最後の拠り所で、"カズミ"という自ら作り上げた自己愛の夢の中で溺れ死んだ。それは美しさの欠片もない、無残で哀れな最期だった。
いやいや……サイコパスすら狂わせる、"愛"とはいったいなんなんだろね。
まーわからんけどね、たださ、この漫画に愛というものがあるとすれば、それは最後、これだけのことがありながら、カズミたちが掴んだ平凡の中にある。そう思うよ、俺は。
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