このサイトはラブコメ漫画の感想サイトで、既に数百作品以上について感想を残しているが、感想としては微妙な感じのニュアンスで書いたものも多い。というか、さすがに数百作品のラブコメを全部が全部面白いと思うことはないだろう。ただ、あまりに何も感じないと、俺の感受性は死んだのか?と不安になることもある。そうかと思えば、読み進めるのがとても楽しい、と感じることもある(そういうことがあるので読み続けている)。
自分に素直になってきたのかもしれない。面白さを、脳の奥で感じているような気がする。
実は何も感じていないことが多い
このサイトを始めてもう数百作品ばかり感想記事を書いた。こうなってくるとコレクター魂みたいなものも出てくるもので、最近は目についたラブコメ(が期待できそうな)作品は片っ端から読んでいる。まぁ漫画はそれなりに高いので、お財布とも相談しつつだが。
で、まぁそんだけ無差別に読んでいると、さすがに全部が全部楽しめる、というわけにはいかない。というより、実のところたいていの漫画は卒読というか、かなりさらっと読んでいて、しかも読みながら今まで読んできたパターンで近いものはあるか、何が同じか、何が違うか……で、それに対して自分はどう感じたか、などとやけに分析的に読んでいる自分に気づくことがある。
それはつまらないとは言わないものの、楽しい時とは言い難いかもしれない。実際、特に感情が揺れ動いたりすることはなく、記事の熱量の無さにそれが出てしまっていると思う。文章量は短く、奥歯に物が挟まったような言い回しが多くなる。
それが続くと、俺の感受性は死んでしまったのだろうか、と我ながら心配になる。
感じる時もある
が、時折心から「これは面白いな!」と思えることもあって、そういう時は自然と顔もニヤつき(キモい)、これは是非感想記事を書かねばと妙な使命感みたいなものも沸いてくる。
この感覚は実に説明し難い。思うのは、恐らく人は面白さをかなりの部分で情動的に感じているのだろう、ということだ。情動は扁桃体など脳の深部の影響が大きい。それは人間にとって原始的な脳の領域で、言語化しづらいところだ。
もちろん、漫画の面白さを理解するにはそれなりの読解力も必要である。だから前頭葉や側頭葉の発達も必要不可欠のものなのだけれど、なんというかね、大脳の表層で処理された内容を、最終的に脳深部で評価している、そういう気がする。
読み慣れてきたからかな、理性のフィルター処理が、無意識的かつ素早くなったと思う。そして歳を取って見栄を張る気もなくなったからか、理性のフィルターを通して情動的に得られた結論について、素直に従えるようになってきた。
つまり、脳深部のところで感じるものがないと、最初の理性的なフィルター処理ばかりが印象に残ってしまうわけだ。それはなんとなくわかるのだが、脳深部で「楽しい」と感じる感じないの境界線はいったいどこにあるのだろう、と我ながら不思議に思う。この名状しがたい感情を四苦八苦して言語化するのが、感想記事の難しさなのかもしれない。
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