久々に『デスノート』を読んだけれど、夜神月と弥海砂はなんだかんだ面白い二人だったなって、まぁでも結局月とLの話

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原作・大場つぐみ、作画・小畑健。2004-2006年全12巻。青春の一冊。

間違いなく名作だと思うが、あんまり楽しい話じゃないし、読んでて疲れる作品だから、再読することも滅多にないのだけれど、ふと思い出して再読。

大人になってから読むと、やっぱり色々と抱く印象が変わるなぁと思った。なんつっても昔読んだ時はムカつくくらいだった弥海砂が可愛く見えたことだ 笑。

それにしても、夜神月は今なお考えさせる、魅力あるダークヒーローだなぁ。それはもちろんLとの関係あってのものだ。以下全12巻感想。

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懐かしい

この漫画は個人差はもちろん、同じ人でも読んだときの年齢で抱く印象が大きく変わる漫画だと思う。俺が初めて読んだのは高校生の時だったが、多分に夜神月に肩入れしていた。クラスにもそういう奴が多かった記憶がある(ほとんどの奴が読んでいたのである!)。

もちろんL派もいた…っていうか、LはLで人気だったけれど、やっぱ、夜神月なんだよなぁ。今にして思うと、なんだかんだ純粋だったのかもなぁ。作中においても、夜神月に惹かれるのは良くも悪くも純粋な人たちだった。

相沢なんかは、今読むと真っ当な大人の代弁者という感じの役どころだ(全体的にあんま役に立っていないところとかリアルかもしらん 笑)。月を信じきれず、といって疑い切れず、尊敬する夜神総一郎の息子に対する情、苦楽を共にした仲間意識、色々なものがないまぜになっていて、月のことを考える時はいつも眉間に皺が寄る。夜神月の傑出した能力に敬意こそ払えど、月の言うことを鵜呑みにすることもない。まぁ、たいていの大人は相沢のような対応になるだろうと思われる。その圧倒的な能力の差で、夜神月の駒になってはしまうものの、心まで制御されるわけでもない。

一方で、ミサミサや松田のような、頭の回転はよいほうではないが、根が純粋なタイプや、魅上や高田清美のような、頭は良いがどうにも純粋まっすぐで、一昔前なら共産主義に傾倒していそうな(今なら新興宗教?)、危なかっかしい秀才タイプなんかは夜神月に惹かれ、ほぼ意のままに動かされてしまうわけだ。

まぁ高田清美は夜神月に大学時代それとなく思考の方向を動かされていそうな気もする。10代から20代前半というと、まだまだ多感な時期なので、環境次第でどうにでもなろう。実際、デスノートを拾う前の夜神月は、父の正義感をそのまま引き継いでおり、デスノートと出会うこともなく、夜神家で育っていれば、現代的な道徳観、倫理観の規範の中で高い能力を発揮する、まったく非の打ち所がない青年に成長していたかもしれない。拾ったとしても、たとえばそれが20代後半以降であれば、たとえ最初に人を殺してしまったとしても、なんだろう、なにか、折り合いをつけて、そのまま二度と使わない、そんな気がする。

覚悟の力

そうすると、非常に道徳的でかつハイスペックな素晴らしい夜神月ということになるが、正直その魅力も、そしてその力も、ずいぶん薄まるだろうな。現に、作中でデスノート前の夜神月は、デスノート後の夜神月に完全に利用されてしまったわけで。持っている能力自体にはほとんど違いがなかろうに、情報の非対称性はあれど、その行動をすべて掌握され、上をいかれて無実の証明の手伝いをしてしまったのは、単純な能力や頭の良さだけで推し量れない、覚悟の差だろう。

その覚悟は、単に命を懸けるというものでもない。自分の人生、アイデンティティ、信念、それをすべて否定され、なかったことにされ、破壊される覚悟とでも言おうか。大切な人も、泣いてくれる人もいない、孤独 な覚悟。

監禁されて憔悴したデスノート前の月は、結局デスノート後の月に打ち勝つことはできなかった。弥海砂もデスノート前後で気迫が違うし、覚悟というのは人間を強くするのだなぁと思う。

月とL

そんな覚悟を決めてギリギリの綱渡りを続けてきた月だからこそ、天才Lを出し抜いて殺すことも出来たのだろう。また、その覚悟に、L自身どこか共鳴するところもあったのではなかろうか。実際、月とLの奇妙な関係は、友情だのライバルだのという言葉では薄っぺらい。なんといえばよいだろうか。本質的な理解者、とでも言えばしっくりくるような気もする。二人は互いを理解し、また評価していた。

キラである月に対するLの執着は非常に強かった。だから、5巻で一時的に月の疑惑が晴れて(?)月を開放した後、落胆してやる気のかけらも見せなくなる。で、月に「僕がキラじゃないと気が済まない」ようだと指摘されると、否定するのではなく肯定する。

「月くんがキラじゃないと気が済まない?……確かに…そうかもしれません
 今 気づきました な…何か……月くんがキラであってほしかった……」

大場つぐみ, 小畑健, DEATH NOTE, 第5巻

Lにとって、月は決して頭が良いだけのキラに操られた可哀想な被害者ではなく、自分と同等の能力を持ち、意味不明な正義感で新世界の神たらんと、すべてを捨てて歪な理想を追い求める、傲岸不遜で幼稚なカリスマであるべきだった。推理が外れているのが悔しいというだけではなく、そういう人間がこの世に存在するということ、それが自分と相対していること、Lはそれを望んでいたのかもしれん。

同様に、月にとっても最後までLは特別な存在であり、最後のニアとの直接対決のときには、ニアに対して「ニア おまえはLにはるかに劣る… おまえにLの面を着ける資格はない」なんてことを思っており、月のLに対する何か底知れない敬意が窺い知れる。まぁ実際は完膚なきまでの敗北を喫するのであるが。

月は最初の間こそ、「人間として」デスノートを使っているなんて嘯くが、最後の頃にはそんな謙虚(?)さは影を潜め、完全に神気取りであった(そんな状態でも、Lにだけは特別の敬意があったとも言える)。デスノートは人間・夜神月が壊れていく過程を描いた漫画でもあると思うが、その観点で、Lの死は月に大きな影響を与えているのは間違いない。

妙な話、Lがいる限り月は人であり続けたように思う。Lの死後、歯止めのなくなった月は、最後のブレーキである父・夜神総一郎の死を契機にして、完全に人間を捨てた……と思っているが、最後の最後、ニアに追い詰められ、語り草となる無様な姿をもって人間性を取り戻し、最後の最後は、人間として死ねたのかもしれない。

弥海砂はもうちょっと頑張れ

物語としてそれでよくても、もう少し綺麗な死に方をさせられなかったものだろうかという気はしなくもない。まぁ自殺くらいしか思い浮かばないし、それも陳腐かもしれんが……。それに、すべては手遅れだったのだろう。終盤の月は見ていて酷かった。痛々しかった。Lが生きていれば、また違ったろうに。

L以外で月をもう少しどうにかできんかったのだろうか、なんて考えると、それができるとすれば、弥海砂しかいないなー、と思った。そんなこと思う自分にびっくり。俺、弥海砂あんまり好きじゃなかったしなぁ。特に最初の頃なんて夜神月の足を引っ張ってばかり、「お邪魔になることはあってもお役に立つことはなさそうですが」というLのコメントがぴったり過ぎた。周りもそんな感じで、「弥海砂ムカつかん?」という会話をさして仲良くもなかったクラスメートと教室でかわした記憶がある。月のミサに対する第一印象

駄目だこいつ…早く何とかしないと…

は今なおネットスラングとして生き延びる迷言となった。

それが、今見るとえらく可愛く見えるのな。これが歳をとったということなんだろうか。でも、ミサに振り回されて狼狽する月は見ていて面白かったね。思えば天才とバカってカップリング的にもおいしいしね。けっこうお似合いだったんじゃん、なんて思う。

もっとも、その後の弥海砂はあまりにも月に傾倒し過ぎ、かつ月に嫌われまいとし過ぎたうえ、月もだんだんミサの扱いに慣れてきたということもあって、最後はほぼ完全に月に掌握されてしまうのだけれど。

まぁそこなんだよなー。高田清美とのやりとりに、ミサらしさを見ることはできるんだけれど、それもまぁ別に月に迷惑がかかるほどでもなく。かつての破天荒ぶりはなく。ミサ自身も成長してしまったが故ということか。

最初の頃の勢いで、月の迷惑も顧みず、一緒にいる女を見たらその女殺しちゃうかも、くらい月にプレッシャーかける、それでいて月に殺させるわけにはいかない絶妙なポジションで居続ければ、何かこう、別の展開があった気がする。少なくとも、女なんて簡単だと嘯く月の鼻っ柱を折るのは、痛快な展開だろう。

とはいえラブコメ要素をこのダークな作品、しかも夜神月というキャラクターに対してぶちこむのは難しいとは思う。が、反逆のルルーシュなんかは、同じようにダークヒーローものでありながらラブコメ的楽しみもできたし、そういうのがあってもよかったのになとか、そしたら月の最期はまたちょっと違ったろうになぁ、とか、そんなことを思う。ま、作者さんは月にそんな綺麗な死に様させる気もなかったのだろうけれど。。。

まぁ結局、夜神月とLの物語だったんだな。正義と悪、大人と子供、天才の憂鬱、犯罪者の人権、因果応報、絶大な力を得た人間、法律の及ばぬ悪事、いくつものビッグテーマが、夜神月とLの戦いに帰着する。今読み返しても面白い名作なんだが、でもやっぱり、人の心を扱った作品だけに、もう少し男女の話があってもよかったのになと、そんなことを思う俺はやはり歳食って脳が溶けたのかもしれない。

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